「吉開菜央特集:Dancing Films」は、第72回カンヌ国際映画祭の併設部門・監督週間に正式招待され話題を集めた『Grand Bouquet』、および吉開菜央がこれまで監督してきた中編・短編計6作品を特集上映。
文化庁委託事業「
主催:(各劇場名)、文化庁、
制作:一般社団法人コミュニティシネマセンター
(敬称略)
言葉の代わりに花を吐く女。罵詈雑言が飛び交う現代に超巨大な花束を送る、情動と暴力の衝突を描いたヒューマンホラー。
人間から人格を剥ぎ取って、肉そのもの、タンパク質を愛することに挑む、言語を超越したラブストーリー。
踊りを始めたのは12歳のときです。当時流行っていた B’z の稲葉さんのパッションに打たれて歌い始めるものの、彼のシャウトは、当時のわたしが音程を取るにはとても難しく、代わりに稲葉さんがライブのときにやっているパフォーマンスっぽい動きを真似して踊りのようなものを始めました。
その後、本気でダンサーになりたいと思って上京し、日本女子体育大学で舞踊学を学んでいるうちに、与えられた振付を踊るだけでなく、自分で振付し、パフォーマンス作品をつくることも始めました。ある日お風呂の湯船で踊る振付作品を発表したいと思ったのですが、湯船を舞台に持ち込むのは難しかったのと、頭の中に生まれたイメージではカメラワークや編集点などがはっきりしていて、とても映像的だったのでカメラで撮って映像として完成させることにしました。
撮影から編集までの作業はわたしにとって踊ったり、動きを振り付ける感覚に似ているものがあり、とてものめり込みました。特にはじめて編集をしたときは Adobe Premiere(映像編集ソフト)と一緒に踊っている感覚になりました。自分が今さっき編集した映像に感化されて次の編集点がバチバチ決まっていくのですが、ほとんど勘に頼っていて、身体の動きに身を任せて即興で踊っている感覚に近いものがありました。当初はいわゆる MV っぽい、音楽ありきの映像を自由につくっていたのですが、そのうち音楽がなければ作品はつくれないのか疑問を持つようになりました。
音楽が鳴っていなくても、身体の内側から生まれるリズムはきっとあるはずで、東京芸術大学大学院映像研究科に入ってからは、自分の作品に音楽を使うことを禁じてみました。徹底的に、画と、その動きから鳴る音に耳を澄ませて、映像を作曲するつもりで制作をしようとしました。
上手く行ったり行かなかったりでしたが、この試みによって発見したのは、いわゆる脚本的な物語や音楽のような時間を進めるためのベースラインをあらかじめ用意していなくても、撮影した断片的な映像をもとに、わたしは感情のようなものを画や音から発見し、編集上で物語にしてしまう、ということでした。それは誰が観ても共通理解を得られるような言葉で説明できる物語ではないし、その感情は「喜怒哀楽」のように名前がつけられるようなものでもないと思います。
この感情を説明するときに一番近いと思ったのは「情動」という言葉です。なんでも、情動がなければ生き物は自分の行動を決定することが出来ないんだそうです。考えてみれば当たり前のことですが、人は全ての行為を理性で決められているわけではありません。体がなんらかの刺激を感じて、言葉が出るより先に、体の方が動いている、反応することはよくあると思います。興奮すると、汗が出たり、鳥肌が立ったり、動悸がしたりすることに多くの人は抗えません。本能、内臓感覚に基づいているというと、野蛮なように聞こえるかもしれませんが、体のすみずみの感覚に目を向け耳をそばだててみたら、皮膚、内臓、毛のひとつひとつの部位それぞれに情が宿っていること、どちらかというとわたしの主体は体にあり、おかげさまで生かされていることに気づきます。わたしはこの、自分ではコントロールできないカオスな身体に潔く向き合ってみて、そこから生まれる物語を探求してきたのではないかなと思います。
映画から生まれた情動が言葉を超えて、ダイレクトに他者の体で受肉されて物語になること、これこそまさに、「ダンス・フィルム」と呼びたいです。映画は実はこうした言葉の外にある感覚に満ちています。スクリーンを通してなら、人は必ずしも人間だけではなく、光、水、風や別種の生き物、あらゆる万物に憑依して、踊ることが出来るのではないでしょうか。
吉開菜央