新聞の文字数には限界がある・・・(お知らせというよりブログ的記事)

朝日新聞に、ICCで起きた映像作品の自主規制について取り上げていただきました。当たり前だけれど、新聞の文字数には限界がある。読者に起きた出来事を正確に端的に事実を読んでもらう必要があるから、記事は間違ってはいないけれど、個人的には取り上げられたキーワード以上の複雑な要素が絡んで今回のことが起きたと思っている。規制をされた理由はオリンピックだけが原因ではないし、わたしの作品も、metooだけを題材にしたお話ではない。新聞は作品を観てもらえる場ではないし、映画の紹介欄でもなく、今回はオリンピックを理由のひとつとして挙げた企業の自主規制について取り上げてくれたのだから、事実を説明するために、言葉を限定して書いてしまうのもしょうがないとは思う。間違ってはいないし、そうした事実もあるのは確かだ。(この作品の説明するために、ひとつの言葉に含みを持たせた詩のような文章を書いてくれとは記者の方には言えなかった、、)なにより今日本で完全版は観れないのだし、むしろ日本では、この件も含めて作品と捉え、まだ観たことのない作品について新聞に書かれた文章を読んで、感想をどのように思ってもらってもいいと開き直っている。ポジティブな反応もネガティブな反応も、その中間な反応も、色々読んだけれど全部その通りだと思う。極論、たとえ日本で完全版を公開できたとしても、気持ちは同じだ。

もともとは「暴力」と「感情・情動」を扱った作品を描きたいという欲望があった。ごくシンプルなストーリーを思いついて書き留めておいた。あとで見返すと、その脇には当時読んでいたレイ・ブラッドベリの「華氏451度」の文章が添えられていた。
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「さあ、これでなぜ書物が憎まれ、恐れられるのか、おわかりになったかな?書物は命の顔の毛穴をさらけだす。気楽な連中は、毛穴もなくつるんとした、無表情の、蝋でつくった月のような顔しか見たがらない。われわれは、花がたっぷりの雨と黒土によって育つのではなく、花が花を養分として生きようとする時代に生きておるのだよ。」(P139 早川書房)

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おそらく発端は、この文章にヒントを得て思いついたストーリーだったのだと思う。そもそもジョージ・ミラー監督の「マッドマックス怒りのデスロード」やデヴィッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」、大林宣彦監督の「花筐」にえらく感動していた時期で、わたしは男性の彼らほど筋力も体力もないかもしれないけれど、中肉中背のアジア人女性である自分の身体から生まれてくるバイオレンスムービーを撮ってみたいという欲望と、この文章がどこかで結びついたのだと思う。(大林監督は、ガンとの闘病中に暴力がテーマではないかもしれないが、あんな力強い映画を撮っておられて、体力の底が見えない、すさまじい力だと思う、本当に尊敬している)実際にもっと細かい描写をふくらませて脚本にして、それも何度か書き直した。その書き直す過程で、暴力は実際に身体を痛めつけるものが中心というよりは、相手の言葉や態度によって引き起こされる、精神的なものから始まる描写に変わっていった。これは、大昔からある普遍的なテーマだとも思う。けれどもわたしは生きてようやく31年。過去の歴史を参照しつつ、今のわたしにしか描けないこのテーマに対する描写はあるような気がした。時期は分散するけれど、メーテルリンク著「花の知恵」志村ふくみ著「色を奏でる」も影響を受けたと思う。同時に、ちょうど伊藤詩織さんの「ブラックボックス」も買って読んでいた時期だった。本には、テレビや新聞、ネットでは知り得なかったことが詳細に丁寧に書かれていた。メディアで編集されて報道されていた事件を見たり読んだりしていたのとは全く違う印象でこの事件について知ることができて、この話を「本」にして出版したということの重みを感じた。(けれども、本を読んである個人の視点から起きた出来事を知ることはできても、わたしにできることはなにもないはがゆい気持ちと怒りでいっぱいになったのを覚えているし、わたしには何もできないと言いながら、自分に無関係の話でもないということについては、いまだに考える。)

どうしても、この作品においては特に、制作中は作品のことばかり考えていて、わたしがその当時気になっていたニュースや事件、全てが、作品に繋がってくる気持ちになり、表現として取り入れられる可能性を探していた。ロヒンギャの大虐殺、日大アメフト部選手の会見、森友問題で自殺した財務局員の方、metooと告白したいのは女性だけではなく、性差だけでは考えられないと思った。今生きている人すべて、自分一人ではなにも変えられないとわかっていても、それでも未来の誰かのためを思って言葉にしたり、気持ちを言葉にしなくてはやりきれなかったり、話すことすらもできなくて死を選ぶ人もいること、誰しもがそうした状況に陥る可能性があるということ、書いてしまえば当たり前のことだし範囲も広すぎてよくわからないと思われるかもしれないが、いま自分が感じていること全てをまぜこぜにして、わたしのやり方で、今の時代に生み出したいと思ったのだ。

わたしは12才くらいのときから、急に思い立って踊りをはじめた。踊りっていうのは、もう生まれた自分の身体の条件でやるしかないものだから、身体に関することには特に関心があって独自に探求を続けていた。パートナーが「人工知能」を研究しているのもあって、人間が「見ているもの」「聞いているもの」をどう認識してその情報に価値判断をして行動するかなどの話が面白くてよく聞いていた。特に印象的だったのは、人工知能には身体がない、つまり死なないから、人間と同じ条件づけで命令を与えることができないという話だった。いまだに身体と感情のメカニズムは全て解き明かせていないけれど、わたしの思考や感情や欲望が生まれるのはいつか死ぬこの身体があるせいであり、そう思うと今生きている身体があることにかなりどきどきした。このどきどきも、この論理的には説明のつかない、よくわからない身体が引き起こしているものかもしれなくて、わたしはこのどきどきを捉えたくてずっと映画を撮っていた気もする。(だから終わりがない。)

説明しようとすると禅問答のようになってくるが、こうした身体現象の事例の書かれた本もいくつか読んだ。アランナ・コリン著「あなたの身体は9割が細菌」、伊藤亜沙著「どもる体」、NTT基礎研究所出版の「ふるえ」の連載記事や仲谷正史、筧康明、三原総一郎、南澤考太著「触楽入門」、岡ノ谷一夫著「つながりの進化生物学」、スティーブン・ミズン著「歌うネアンデルタール」、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史 上」などなど・・・。研究者並に理解しているとは言い難いけれど、すごく興味深く読んだ。(特に伊藤亜紗さんの「どもる体」のリズム論の章には無限の勇気をもらった。いつ思い出しても、底なしの力が湧いてくる素晴らしい本だ。)

突飛な結びつけに思われるかもしれないが、こうした、かじりかけの知識と、経験と、わたしの身体感覚でものをみたとき、世の中における権力構造、集団と個のせめぎ合いで起こることは、生物の命を維持する構造にも似ていると思った。

そうしたことを、なんとかスタッフの人に言葉や画で伝えながら、伝わったり、伝わらなかったりしながら作品をつくった。なにがつくりたくて伝えたいテーマなのか、限定はできないが、監督として、それぞれの描写についてこれはなし、これはありの判断はできた、だからなんとか完成した。完成させるまでなにができるのか自分でもずっとわからなかったし、最後の最後まで作品は変化していた。

そしたら、未完成のオフラインをもとに、展示を予定していた施設で作品を検閲された。わたしが見て「不快のなかにある快」あるいは「美」だと感じる画は世の中の多くの人と違うだろうから、無限にあるリスクを一斉排除するのが多くの従業員を抱える日本企業の姿勢であるということを突きつけられた。身体に置き換えるなら、ウイルスって全部やばそうだから、抗生物質で残らず死滅させよう、みたいなことだろうか。たしかに、ウイルスを宿す身体も死んでしまってはどうにもならないってのはわかるし、安易に人間の社会の問題と身体の構造を結びつけるなと言われるかもしれないけれど、わたしはやっぱり、当時起きていたわたし以外のあらゆる事象は、生き物の身体で起きていることに結びつけられる部分があると思った。特に、NTT東日本広報室の反応には率直にこう思った。

「ああ、NTT東日本広報室のひと、この作品観て、情動が掻き立てられてしまったんだなあ」

「情動」というのは、「感情」になる前の心の動きのことで、即物的な身体反射によって引き起こされる。このあたりのことはそれこそ同NTTグループであるNTT基礎研究所の触感コンテンツ専門誌「ふるえ」でたくさん紹介されている。


頭で感じる幸せと体で感じる幸せのヒミツ
http://furue.ilab.ntt.co.jp/book/201708/contents1.html

以下、引用

英語の「Emotion」の日本語訳には「感情」と「情動」の2つがあります。私は「情動は感情の動機付けである」と思っています。つまり、何かしら刺激があって、心臓がバクバクする、汗が溢れるなどの身体反応が生じます。それがいわゆる「情動反応」で、その情動反応に対して、人間が快・不快といった価値付けをしたものが「感情」だと考えています。先ほど挙げた鳥肌も、時には不快、時には気持ちいいと価値判断がされていて、何が違いを生み出しているのかはまだわかりません。でもそこに、音に対する感情のメカニズムを解き明かす鍵があるんじゃないかと思っています。

〜中略〜

それは難しくて、最終的には「どのくらい快でしたか?不快でしたか?」というアンケートに頼るしかありません。ただ、最近私が思うのは、人の主観評価が必ずしもすべてではないということです。
  それに関連した私の研究で、音楽のテンポの違いが人にどのような影響を与えるか調べたものがあります。人は、遅いテンポの曲を聴くとリラックスし、速いテンポの曲を聴くと興奮するというのが基本にあります。実験ではショパンの曲を聴いてもらいました。被験者からは、「リラックスした」とか、「クラシックは好きじゃない」とか、さまざまな主観的意見が出ました。しかし、結果として、主観評価とは関係なく、テンポのみに依存して心拍数が上下するという情動反応があったのです。つまり、主観評価とは異なるやり方で、曲のテンポが人間の身体に影響を与えているということです。私たちは、そのような脳機能を「潜在脳機能(Implicit Brain Function)」と呼んでいます。今までは主観評価と身体反応が一致するのが当たり前のように考えられてきました。しかし最近では、それがズレていることのほうが興味深く、主観や感情に対してなのか、情動反応に対してなのか、快・不快に対する考え方がだんだん変わってきています。

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問題とされたわたしの作品は、NTT東日本広報室とICCスタッフの方々に、冷静に考えれば年齢制限を設け、ゾーニングすれば済む話を、知性や判断を司る脳、比較的歴史の浅い脳とされている、大脳新皮質ではなく、無意識や本能行動、情動、感情を司る、大昔からある脳、大脳辺縁系の力に引っ張られて考えるしかないほど、心の中をかき乱してしまったのだと思った。それはこの作品のクオリティを証明するものではあったけれど、こうした形で自分に返ってくるのはなんとも皮肉な話である。けれどもあえて付け足すならば、それでこそ「人間」って感じもする。

それが「映画」なんじゃないかとも言いたくなる。

NTT東日本広報室が冷静な判断を欠いても恐れていたのは、他でもない、この大勢の人の「情動」だと思う。情動を悪い言い方に変えれば「炎上脳」とも言えると思う。(わたしが勝手につくった言葉です)感情の波に飲まれて冷静な行動を取れなくて、周りの意見を聞けず、自分の考えしか頭に思い浮かばない。そういう状態は、わたしだってよく知っている。そもそも人は、「情動」がなければ、自分の行動を決定することができないのだ。自分の意識で動かしていると思った身体は、こんなにも、身の回りにある環境と社会と呼応し続ける身体に、動かされるしかない、曖昧で不確かで、いつまで生きて、こうして文字をタイプすることができる期限ももちろんわからない、未知で、恐ろしいものなのだ。

なんの前提知識もなく観てくれるカンヌ国際映画祭監督週間という場所では、この作品はどう観られるだろうか?Q&Aで言いたいことは山ほどあるけど、わたしは詩人ではないからたくさん言葉を悩みながら、こっちかあっちかと、たくさん話してしまうのだと思う。ずっと、どっちの立場も取れなくて、右に左に前に後ろに上に下に、バランスを取ろうと動き続けることしか、わたしはできない。

(ちなみにわたしの母親は『Grand Bouquet』を観て、高校時代、反抗期だったわたしとの死闘を思い出したと言っていた、今は理解あるパートナーに出会って、世界が広がったということかという母ならではの独自の解釈をぶつけてくれて、本当に面白かった。どういう伝わり方をしても、どれもその通りの部分があると思う。でもわたしには、映画のなかで言葉にはしていないけれど、たくさんの矛盾する思いを込めた。)

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まとめることはしません。作品は完成して編集はフィックスしているけれど、わたし個人の作品に対する思いは、なにかひとつの思想に限定されるものではありません。それは『Grand Bouquet』だけではなくて、わたしのあらゆる過去作にも言えることです。

今回の件で、興味を持ってくださった方がいれば、言葉の要約ではとても内容を説明できない、わたしの考えていることを映像から全て読み解けるわけではない、「わからないけど、なんとなくわかる」そんな物語をもとに映画をつくっているものもいることを知ってもらえたら、映画の未来の多様性をほんのすこし、広げることもできるのかなと思いました。(実験映画というものが流行っていたころは、まだそういう理解もあったのかもしれませんが、わかりやすく、共感する主人公がいて物語のある映像が主流の時代に、私自身もそういう表現に慣れ親しんでいる今の世で、どれだけメインストリーム外の表現を発見するかは個人的に、非常に挑戦しがいのあることです)作品を通して生まれる波は、時代を経ていろいろと変わり続けていくように思います。未来に生まれてくる映画表現に対して、わたしたちはいつも、「ただ冷静に」観ることなんて出来るわけがないこと、身体から生まれてくる抗いがたい情動と、意識と、思考がせめぎあって、それぞれ、ただひとりの視点でしか観ることのできない体験を作り出してくれるもの、それがわたしにとっての「映画」だということを、ずっと覚えていたいと思うのです。